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出来損ないの減らず口

毎週金曜日にちょっとしたクレイジーをあなたに

いらだちと芸術

世界三大巨匠にも数えられたグレゴリー・ペイジが晩年、

こんな言葉を残してるんよ。

 

 

「そうか、人生は食べかけのコーンスープだったんだ。

 もう1年早ければ…」

 

 

彼はその後1週間もたたないうちに、

家で暴漢に襲われ殺されてしまうんやけどね。

 

 

彼の残した言葉の意味について、

色んな人がいろんな憶測を語っているんやけどさ、

このふわっとした感じ、

これこそが芸術の至極なんだろうって最近思うんよね。

 

 

落語家の桂福々も「落語的人生論」って本の中で言ってるんやけど、

落語にしたって絵画にしたって文学にしたって、

「すべてを語らない」事に良さがあるんよね。

 

 

 

もう好きな人からしたら当たり前のことなんやおもうんよ。

 

でもさ、映像媒体が発達した今こういうものの良さって、

一部の人の楽しみに近くなってきてる気がするんよね。

 

 

本を読む、落語を聞く、絵画を見る、

芸術に分類されるものってなんでもそんな側面があると思うんやけど、

その感じがね、なんか寂しいというか違うのに…と思ってしまうところなんよね。

 

 

多くを語らない、考える余裕を持たせた楽しさってすごいんやで。

ホンマにそう思うんよ。

 

 

 

例えばさ、

童謡の「ぞうさん」ってあるやんか。

 

「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね。

そうよ。母さんも長いのよ。」

の奴。

 

 

これだって想像してみたら不思議な感じがするやん。

 

 

 

 

 

 

 

だってさ、誰と誰がしゃべってるかさっぱりわからんくね?

 

 

子象と親象やとすると、

此奴、親に向かって「ぞうさんぞうさん」って言うてることになるしさ、

人間の親子やとすると、

「かあさんもながい」なんて言い方しないでしょ?

 

 

となるとですよ、

人の子供が小象に向かって

「ぞうさんぞうさん!!」

っていうてて、それに対して小象が、

「せや!わてのかあさんもながいんやでぇい!」

って言うてるのかな?とか想像が膨らむやん。

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、たとえが悪い。

 

 

 

 

どうも畑中です。

 

 

相も変わらずしょうもないことばっかり考えている今日この頃ですけど、

皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 

 

社会人も2年目に差し掛かり、

なんとなく会社って仕事ってどんなものかが理解できて来たくらいの自分ですけども、

最近思うのが、「いらいらする事が増えたなぁ」ってことなんですよね。

 

 

大学生の時とかよく、

「なんでこのおっさんはこんな些細なことにいちゃもん付けてんねやろう」

とか良く思ったもんやけど、自分がそこに片足を突っ込みかけてるなぁっていうのを身をもって感じるわけよね。

 

別に何があったってわけでもないんやけどね、

やっぱりどこかで仕事をするってストレスが溜まってるんでしょうね、

日常でいらっとする事が明らかに増えてるんよ。

 

 

この前もそう。

テレビで潔癖症の男の人が、汚い部屋を掃除するみたいな番組やってたんよ。

 

 

最近自分が一人暮らし初めて、掃除とか家事に結構凝ってるから、

料理とか掃除とか、家事を応援する番組が最近好きで、

その番組も楽しく見てたんよね。

 

 

部屋に入るなり部屋の汚さに卒倒しそうになってる潔癖症の人が、

色んな技で汚い部屋をきれいにしていくんよ。

 

油汚れの酷い換気扇は、湿らせた重曹を張り付けて掃除するとか、

髪の毛がたまってヘドロみたいになってる風呂の排水溝に有効な洗剤とか、

潔癖症ならではの掃除術!ってうたい文句で、あっという間に部屋はピカピカになるんやけどさ。

 

 

 

 

 

 

でもその技を使うたびに俺のいらいらゲージはたまっていくわけですよ。

 

だってそうでしょ!

 

お前潔癖症なんやったら、

汚れる前に掃除しちゃうはずやから

頑固汚れをなくす技を知ってる時点でキャラやんけ!!!

 

 

 

もう排水溝の洗剤を紹介し出した時には震えたね!

スポンサーまでついちゃってますやん!

何が潔癖症や、恥を知れ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

位までいらいらした後、

ふと我に返り、ただただ、

 

 

 

 

 

 

絶望